帰れない日曜日

五月前半は毎夜オンラインで日本語の授業を生徒が嫌がるのも顧みず、続けた。正直いってすごくくたびれた。”疲れた”ではなく”くたびれた”。くたびれるという言葉には体力的なことより精神的なこと、それでいて物質的なイメージがある。「くたびれたスーツを着て、今日もうつむいて会社に行くお父さん」というと、「疲れたお父さん」というより状況がより鮮明に見えてくる。そういう感じ。心も洋服もくたびれた。体力は、、、まだちょっと余っている。

そんなわけで、この週末は、いくつかの予定が変更になってちょっと余裕。そうだ!映画を見に行こう。そして、つい昨日雑誌の映画評で背景や音楽、俳優がとってもきれいと書かれていた”帰れない日曜日”をさっそく予約する。だいたいこういう時は94歳の義母、夫、と3人で行く。今回もシニア3人組。義母は多分寝ている。夫も半分くらいは寝ている。が、彼らも映画は大好きだ。

第二次世界大戦前まで、イギリスの貴族の家には小間使いや下男がいた。行儀見習いやお屋敷での勤務歴が将来のスキルアップにつながるからと親元を離れてお屋敷に奉公に出る子がいる。親が養育できなくなって捨てられ養護施設の世話になり、13歳くらいになると貴族のお屋敷に住み込みで働きにでる子もいる。そういう子供たちも年に何回か日曜日には実家に帰らせてもらえる。でも養護施設で育った子は帰る実家がない。そんな小間使の少女の物語だ。彼女は貴族の家の裏も表も外部者として経験する。日曜日に帰宅する実家のない彼女のために雇用者の貴族は心配りをする。そんな雇い主の親切心も彼女にとっては貴重な人物研究の対象だ。

衣装も背景となる景色も貴族の館も、とても美しい。貴族一家が留守の午後。少女は館の中を歩き回る。探検だ。そして図書館で本を読む。これが彼女の招来を開いてゆく。本当に美しい身体なのだが、なぜか彼女は全裸だ。映画という芸術のためならばなのか、実に潔く裸をさらしてくれる。その姿に”くたびれた”感は全くない。

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