お歳暮の話

平等という言葉が日常の中で、堂々と独り歩きして久しい。非常に狭い社会、世界のことばかり言ってるとお叱りを受けそうだが、日本はそこそこのところで平等が行き届いている社会、と思えてならない。特にベトナム人の若者と日本人の若者と、双方とをつき比べると、そんな風に思える。

お歳暮、というのは、概念だ。プレゼントではない。日本的なるものの典型といえるかもしれない。そして、そこにあるのは、平等感を作り上げている概念だということ。

私も少しだけお歳暮をおくる側だ。本来はお世話になった人に直接お持ちする。持っていく日はあらかじめお知らせしておいて、先方にも待っていただく。私が子供のころのお歳暮(お中元)というのは、そういうものだった。テレビがコマーシャルをするようになり、”お世話になったあの方へ”という当時のキャッチコピーがなつかしい。が、この辺りからお歳暮は単なる慣習になってしまった。

お歳暮はお中元と同じで一方通行の贈り物。目上の人への、お世話になったお礼という意味合いを持つ。だからお歳暮でお返しはしない。本来ならお伺いして直接手渡しするべきだが、目上の人は忙しい。だったら、送りましょう。という習慣なのだ。

さて送られた側。これは送ってくれた人の精一杯の気持ちを精一杯のお礼の気持ちで返す。手紙、電話。そして、受け取ったら早い方がよい。本日は大変結構なものを頂戴し、、、、。と受け取ったその日に令状を出すか、電話をする。

こういう贈り物にまつわる習慣は、日本人の80歳90歳の老人でも面倒くさい、厭な習慣、と思っている人が案外多い。でも、私は両親や先生に教えられた日本人が持つ心の習慣としての、このお歳暮が好きである。

一方で、こんなにおいしいもの私と私の家族だけで食べるなんてもったいない、と知人友人に季節の果物を送ることがある。これは時期が重なってもお歳暮でもお中元でもない。そしてこれは見返りを期待してもいいかな?とちょっと期待したりして。

 

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