兵糧せんべい

三笠塾は陽子先生の実家を解放して教室として使っている。そんな三笠塾には父や母の位牌を据える仏壇が安置されていて、その仏壇の前で突然思い出したことがある。

私の父は20年ほど前に亡くなった。若禿で色白で男性にしてはぽっちゃりしている。運動は苦手でも歩くのは好き。私はそういう父の特質をほとんどすべて受け継いでいる娘なのである。
よく、女の子はお父さんに似ているといわれると嫌がると言われる。しかし私は、お父さん似ねといわれるのが好きだった。瞳の色が黒ではなく薄い茶色だったこと。天然パーマといわれる巻毛。北国の白い肌。母は美しい人で母親似といわれた方が絶対いい、と思いながらもお父さん似といわれるのが好きだった。

そんな父はアイディアマンで、いろいろなことを思いついては家族に嬉しそうに話すことがままあった。ほとんどは上の空ながら父の発明の話をよく聞かされていた。箸にも棒にもかからないような代物とはいえ、父に頼まれて、母はいろいろな作業を不承不承させられていたのである。

こんなことがあった。
硫酸ニコチンというたばこの吸い殻からとれる成分が、植物には害を及ぼさずに農薬の代わりになるそうだ。
「硫酸ニコチンをたくさん採集して製品として世に出したい。ついては、たばこの吸い殻集めが必要だ」
ということで、吸い殻集めを母が仰せつかったのである。
母はその当時ボーリングのアマチュア代表で、しばしばボーリング場に出入りしていた。そこでボーリング場の灰皿からたばこの吸い殻を集めて持ち帰るということになったのだ。母はさぞ困ったことだろう。悲しそうな顔で「でも仕方ないわ」と観念して、ボーリング場の支配人に頼んだことに違いない。ところがあまりにへんてこな頼みごとなので、支配人は面白がって集めてくれたそうだ。

そんな父のとりとめもないアイディアの中で、今でもはっきりと覚えている発明品がふたつほどある。これには私も直接かかわっていた。

その一つは“ペーパーラジオ”。これはのちにJR東日本がペーパーラジオというネーミングを使って、電車内でのニュース媒体にしていたものとは違い、本当に紙で作るラジオなのだ。現在のようにスマホや携帯電話などない時代のこと、一歩家の外にでると私たちは案外外部の情報とは遮断されていた。だからといって大きなラジオをもって歩くことは無理である。災害時には如何すればいいのか? というわけでペーパーラジオは父が考え出したアイディアだった。ラジオが超小型化されていたとしても、いざという時に備えて四六時中ラジオを首からぶら下げている人はいないだろう。父はそこに目を付けた。災害はいつ起こるかわからない。その時ラジオが聞ければすぐに行動できる。ラジオを思い切って小型化し外側を紙で作れば……

そこで私たち子供にまでお鉢がまわってきた。私は苦手な図画工作に取り組んだ。中身の機械部分は、父が運営する会社内で作れる。私たちがやらなければいけないのは、紙工作。父は穏やかな性格の人だったので、大声で怒鳴るようなことはしなかったし、私たちを怒ることもない人だった。それゆえ家族は父を大事に思い父の頼みを断れなかったのだ。私たちは夜な夜なペーパーラジオの外装作りに励んだのだった。
しかし、その後の顛末ははっきりせず、ペーパーラジオはいつの間にか消えてしまった。

もうひとつの発明、それが“兵糧せんべい”だ。家の近くに草加せんべいの工場があった。土曜日の午前中、キュウスケといって壊れせんべいを大きな袋で破格で売る。このキュウスケを好きな人がいて、ちゃんとしたせんべいより美味しいという。土曜日の早朝、そういうキュウスケ・ファンのために袋詰めのキュウスケを箱買いするようになった。箱買いして知人や友人に送る。もっと買って、もっと送って、となかなかの評判だった。その話を父にした。父は、せんべいは災害時の非常食に案外いいかもしれない、家にも常備しておこうと言った。そんなことがあって、しばらくすると知り合いの健康食品の会社から、昆布の粉末やシイタケの粉末を手に入れた、と言い出した……また、何か始めましたね。

それが“兵糧せんべい”だった。父は昆布の粉末やらシイタケの粉末やらを練りこんだせんべいの製造を、草加せんべいの会社に依頼し、“兵糧せんべい”と命名した。それを知人・友人に配る。父の言い分は、「災害時に乾パンや即席ラーメンより、栄養価の高い兵糧せんべいは絶対いい! 兵糧とは生きる糧としての食べ物のこと、兵糧を絶たれたら城は落ちてしまうんだ」と言った……なるほどね。
この顛末も、いつの間にか……、である。

ペーパーラジオも兵糧せんべいも、ちゃんと製品として開発し特許なり商標なりを取得していればそれなりのお金になったかも知れない。今ではそう思うものの、当時はまだ子供だった私たちや、父の言う通りに動いていた母もそんなことはわからない。実際商売とかの話になると、父はその製造をやめてしまう。そう、ペーパーラジオも兵糧せんべいも、災害時の家族のためという目的が果たせないまま、父の思いは消えてしまったのである。

私が父親似だと思うのは、こんな点にあるのだ。周囲も取り込んで一生懸命行動するが、その行為の対象というか目的がちょっと普通と違うのだ。母にはよくこう言われた。
「お父様と陽子、二人のいうことはよくわからない」

母にしてみれば、スナック菓子全盛のこの時代、戦国時代じゃあるまいし、何が“兵糧せんべい”だということだろう。三笠塾に据えられた仏壇に手を合わせると、そんな母のぼやきが聞こえてくるようだ。

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