足尾銅山

4月も5月もとても忙しかった。6月になれば、少しは余裕が作れると思っていたが、全然そんなことはない。でも、6月になって梅雨入りして、返って晴天の日が増え、旅行もちょっとしたお出かけも楽しくなっている。大袈裟な話だけれど。夫、義母と3人で日光から足尾銅山に行った。足尾銅山はどちらかというと茨城県群馬県に近いが、日光観光の一部となっている。そこで、日光に宿をとり、あえて日光の有名な観光地は一切行かず、足尾銅山観光に絞ることにした。

13時新宿発のスペーシアで下今市まで。下今市で普通電車に乗り換えて東武日光駅。宿のシャトルバスで霧降高原にある宿に着いたのが16時。まだまだ明るい。そして素晴らしいお天気。”徒歩”が趣味の2人はさっそく近所を歩くという。今回は私も一緒にでかけた。山の中ではあるが、中禅寺湖と男体山の裏側に当たるこの辺り。なだらかな山並みが美しい。宿は1980年代、私たちが若かりし頃、”猫も杓子持ってテニスをする”といわれた時代の生き残りみたいな所だった。テニスに関する大きな施設がいくつもあり、宿は階段だらけ。そう、若い私たちはこんな階段、一段おきに後ろ向きに下りても平気だった。温泉なんて好きじゃなくて、お部屋も今から考えると、こんなに1部屋にたくさんの人数泊めるのに、トイレはひとつだけ。しかもお風呂と一緒。思いがけず、昭和をしっかり感じてしまった。

東武日光駅から、足尾銅山までは、電車を乗り継ぐと3時間くらいかかる。抜け道みたいな方法をネットで見つけた。これなら1時間くらいで足尾銅山まで行ける。そう、路線バスがあったのだ。東武日光駅で明日の足尾銅山行きの相談をしようと夫と話をしていたら、近くにいた女性が、私、今、足尾銅山観光から帰って来たの。朝9時40分にバスがでますよ、と親切に教えてくれた。駅の窓口でさらに確認すると、奥入瀬渓谷鉄道の駅もそれほど離れていない様子。少し安心して宿に入った。

足尾銅山は昭和の時代から私が行きたかった場所のひとつだった。何かの折、足尾銅山の前を通りかかり、異様な廃墟のような場所を見て、帰宅してからあわてて足尾銅山について調べた。あの時、無理して、ちょっとだけでも見ておきたかった。と後悔しつつ数十年。やっと願いがかなったのだ。足銅山に行かれる。老人3人で時代は昭和を越して、平成、そして令和になっっちゃったけれど。

老人3人でしかも石田おばあさんは94歳、さすがに路線バスは無理だろうと、タクシーを頼んだ。9時出発。どうせなら、素晴らしい建物と評判のJR日光駅も見ておこうと運転手さんに頼んだら、そうですね。ぜひ見学してください。と連れて行ってくれた。JR日光駅舎は明治大正時代の木造建築だ。1Fに天皇陛下がお休みになる御座所があり、ここから天皇は日光田母沢御用邸に行かれる。せっかくだから日光杉も見ませんか?と運転手さんが声をかけてくれて、日光杉並木を束の間、散策した。

そして、足尾銅山。路線バスは足尾銅山観光のトロッコ列車の入り口に行くが、運転手さんはどうせなら、足尾銅山の勉強しませんか?と足尾銅山学習センターに連れて行ってくれた。そして、私は数十年ぶりに、あの異様な光景を再び目にすることになる。さらに足尾銅山が抱えた問題。足尾銅山周辺のすっかりはげ山になってしまった辺りの修復作業に従事した人々の物語を私たち3人は大人の修学旅行よろしく、しっかりと勉強することになった。この日は晴天で風もなく気持ちの良い休日。びっくりするくらいたくさんの中高年のトレッキング、植林協力ボランティアが訪れていた。足尾がはげ山になってしまった後、山の修復に一番尽力したのは、名もない一般人。周辺の農家の主婦たちだった。

タクシーに乗ったおかげで、単なる銅山観光ではなく、足尾銅山勉強会と足尾銅山再会!ができた。運転手さんありがとう。

銅山観光も決してつまらなかったわけではない。トロッコ列車は銅山の奥深くへ銅の鉱石を掘りに行く鉱山労働者を運び、掘り出した鉱石を外に運び出す。その様子をスライドや展示物でつぶさに眺めながら、時を経て私たちは追体験していく。日本を強く大きくし、日本を世界に認めさせ、そしてあの戦争へとかりたて行った原動力のひとつが、ここにはあった。

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