令和に想うこと

新しい元号”令和”の時代が始まった。生前即位、元号の発表は1か月前と、時代にふさわしい幕開けになり、今一度、気持ちを新たに新しい年を意識して生きていこうと、心に強く誓っている。”利他”を極めることだ。令和とは、私にとってそういう時代にしていきたいと思っている。

一口に”利他”といってもいろいろある。単純に利己主義でなければよい、というのも利他かもしれない。だが、私はもっと積極的な利他でありたい。そして、私の現在の境遇でいえば、対象はベトナム人の若者たちである。いつか、別の国の人たちともかかわっていきたいが、今はベトナムオンリー。日本とベトナムが双方にとって良い関係を築き上げることができるように尽力する。

大切なのは言語だ。そして言語、日本語を考えるうえで”令和”の御代はふさわしい時代になると思う。日本語はまるで鎖国しているみたいな言語だ。英語をちゃんと勉強した方が将来の役にたつ、なんてことを言っている人ばかり目につく中で、私は絶対違うと思っている。英語ができるのは素晴らしい。英語は世界語みたいなものだから、私たちは世界中のどこに行っても英語でやっていけると思っているみたい。でも、日本で英語だけできたって、私たちは暮らせない。考えてみてほしい。日本語が全くわからないのに日本にいる自分がどうなるか?

私の周囲は英語かぶれしている人間が多い。日本人だってアメリカ行って、英語圏で勉強して、と思っているのだから、日本に来るベトナム人たちはみんな、英語の国、アメリカやオーストラリア、シンガポールに本当は行きたいんだろうと思っている。行かれないから仕方なく日本に来ている。特に留学生はそうだろうと思っている。

このことには、二つの大きな誤解がある。日本に来る留学生があまりに日本語ができないので、本当は日本に来るのが嫌だった。これが一つ目の誤解。お金を稼ぐのが目的なので、留学生というのは隠れ蓑。だから日本語なんてできなくてもいい。と本人たちが思い込んでいる。これが二つ目の誤解。

似たような話に見えるかもしれませんが、そして根は同じかもしれませんが、上記の二つは誤解としか言いようがないと私は思います。日本人側の誤解はもとより、ベトナム人側の誤解もけっこう激しい。

日本人は勤勉だ。留学するとなると皆、留学する国の言葉をよく勉強する。できるようにならないと留学しても大変、と思っている。でもベトナムでは、日本に行って日本語勉強してお金も稼ぐ、簡単だよ!といわれて日本に来る。ベトナムではあまり日本語なんて勉強しなくても日本に行けばいやでも日本語いっぱい勉強するのだから、といわれて日本やってくる。アメリカやオーストラリアでは稼げないし、第一行くだけでも大変だ。

こんな誤解だらけの留学生たちとつきあっているうちに、私のお節介がむくむくと頭をもたげてきました。特に私は日本語にこだわりがあります。日本語教師を志したきっかけも外人に教えるというより、言語としての日本語に興味があったからです。ピアノの指導はずっとやっていましたが、日本語の指導を頼まれることもありました。相手はもちろん日本人の若者です。指導する言語として日本人相手に日本語をやっていると、変な話ですが、外来語で説明した方がわかりやすい時もありました。日本語ってけっこう大変だよね、というのは今もって感じることです。

誤解の上に成り立っている日本語学習。お金や時間、教育する側である日本の事情。そのすべてがベトナム人には不利に働いていました。私がお節介とはいえ”好意”ですることが、彼らには理解不能ということもよくありました。今でもたくさんあります。それでも私は”利他”を徹底して令和元年の今、大いなる努力を続けていくつもりです。何か良いアイディアがあったら教えてくださいね。

 

 

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