ベトナム人による三笠塾の講師

2016年、三笠塾が三笠塾としてスタートし始めた時、武蔵野大学日本語コミュニケーション学科に入学を決めた3人のベトナム人は、まさに私の希望だった。出身地も北部、中部、南部、にきれいに分かれて。日本語能力の高い学生はほかにもいくらでもいる中で、あえてこの3人に照準を合わせたのは、その伸びしろに期待したからだった。そして、私の期待に違わぬ結果を目の前に示してくれるのだが、そういう幸運を当時の私はあまり実感としてもっていなかった。

ニャン先生が結婚し、3月16日には卒業式をむかえる。本人は今、ハノイで新会社設立に奔走中。とても新婚の花嫁とは思えないが、それがベトナム女性のすばらしいところ。実になんでもやってのける。かくいう私もマルチプレイヤーの面を持つが、これは私が何十年も生きて、努力と精進で体得したものだ。ニャン先生に限らずベトナム人の伸びしろのある子は実に短期間で、私が長い時間をかけて身につけてきたものを身に着けてしまう。それをうらやましいと言っている間はない。彼らの目を見張るような成長ぶりは実に清々しく、ただただびっくりしているだけだ。そういう中でもニャン先生は抜群の女子大学生だった。そして、最高の三笠塾講師である。

三笠塾を成立させるために私が考えたのは、JLPT合格者をたくさんだす、というより前に、ベトナム語で日本語を教えられる講師の養成だった。これは私自身の外国語の勉強の歴史から学んだものだが、日本語は日本語で教えてもうまくいかない。英語やフランス語は英語やフランス語で教えてもらった方がうまくいく。ドイツ語はちょっと日本語寄りで、大切なところは日本語で解説してもらった方がうまくいく。

このことは、私の体験上のことなので、そんなことはない。陽子先生はおかしいという人もたくさんいると思う。けれど、長い時間日本語そのものにかかわってくると、私なりの確信めいたものが体の内側に育ってくる。これは私なりの確信なので、違うといわれたらそれまでだけれど、私なりに確信をもっている。簡単なところでは日本語は読み書く言語だと思う。ドイツ語もつづり字が重要な役割をする関係で、造語力があり、読み書き言語としての方が学習は容易だ。英語とかフランス語は、発声と発音に重きが置かれる。聞き話す言語だ。そして、われらがベトナム語も、最も聞き話すことが重要な言語になっている。どちらにしても日本語とかかわると、日本語で指導した方が、特に初期教育はうまくいく。

三笠塾の講師である、ということは、日本語を自国語で教えられるということ。ここに私は最も重点をおいている。「どうでもいいじゃん!」と言われそうだが、言語メソッドというのは、ある種の哲学がないと成立しない。陽子先生の日本語教授法は、日本語の(特に入門と初期)教育は現地語で行われるべきだということを基本にしている。17歳まで、漢字もひらがなもカタカナも知らなかったベトナム人たちが6カ月の入門コース終了でひらがな、カタカナ、漢字を50個くらい憶えて、日本にやってくる。いろいろな国の人がいる日本語クラスの中で、日本語の指導が行われる。何が起きるかというと、ベトナムで憶えたはずのものまで忘れてしまうのだ。日本語学校はいろいろな国の言語でひとりひとり授業してくれないので、6カ月現地で習った貴重な日本語体験まで失われてしまう。日本語学校は、学校としていろいろな国対応しなければならないので、仕方がない。そこで三笠塾はベトナム語に特化して、入門初級は、あえてベトナム語で教える。これができる優秀な講師の存在が不可欠と思った。なんだ、そんなこと! でもこれを思いつく人は日本人にはいない。だから哲学と言い切るし、そのくらい重いものと考えないとやっていけない。最初にこの哲学と向き合い、陽子先生を理解しないと、本人がつらくなる。結果、三笠塾講師としてははなはだ中途半端な存在になってしまう。そういう存在がたくさんいた。

武蔵野大学日本語コミュニケーション学科は理想の学科だったが、それを自分の将来にどんな形で役立たせるかということになると、はなはだ疑問が残るところでもある。日本語を必死に勉強するなら、英語勉強した方がいいのでは? 日本語なんて難しいだけで何の役にもたたないよ。日本人がそういって、まともに日本語勉強しないのに、この学科は日本人と外国人が半々で、日本語の勉強ばかりをさせる。きっと、日本人は優秀で外国人はあまりできないだろうと思う。いえいえ、優秀なのは外国人の方です。なぜなら日本人は、就職の手段として大学に通っているから、学部学科はあまり関係ない。一方、外国人は必死である。就職という目的は同じでも、そのための中身が単なる大学卒業ではないのだから。そして、学習言語としての日本語は実は、それほど難しい言葉ではない。

ニャン先生は、武蔵野大学日本語コミュニケーション学科を最大限に生かして勉強した。それは陽子先生の希望とリンクした。ニャン先生は、三笠塾最高の、理想の講師であり、タム先生の目標にもなった。けれど、ニャン先生がハノイへと飛び立とうとしている今、次世代の講師養成は難航している。4年間で、ベトナムも日本も様変わりしてしまった。特にベトナムは若い国。変化のスピードは日本の何倍も速い。4年、5年と日本にいるベトナム人留学生たちは、本国に戻ると浦島太郎の心境になるという。

それでも、ベトナム人による三笠塾講師という夢を陽子先生は捨てるつもりはない。それを体現してくれたニャン先生。そして、それと同じくらいの能力をつけたクオン先生、タム先生がいる。三笠塾のこれからのために、ニャン先生の成功譚を単なる夢の実現物語にしてしまうつもりはない。これは次なる三笠塾の目標だと陽子先生は思っている。

卒業も結婚も、それは次なる人生へのスタートである。それでも、卒業や結婚は夢の実現だ。ニャン先生の卒業と結婚が、三笠塾の次なる生徒たちの大いなる目標になる。三笠塾で勉強しよう。三笠塾に行こう。それは目標になる講師がいるから。

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