三笠塾ということ

西新井大師の寒桜
西新井大師の寒桜

父が亡くなって22年が経つ。母が亡くなって7年経過。時の経つのは早いものだ。

父は桜の花が満開のころ、あの世に旅立っていった。桜が咲くころには病気も完治して家に帰れると思うよ。と退院を楽しみにしていたのだが、桜の花満開の下を通り抜けた車の中の父はこの世の人ではなかった。ふとそんなことも想い出す今日この頃。

父が亡くなった時は私も家族もまだまだ若くて不安でいっぱい。取り乱す母を慰めて一緒に行動するのが精いっぱい。加えて葬式も法事もとても大変だったので、悲しむ暇もなかった。父の死で悲しみが襲ってきたのは2年が過ぎ、3回忌を迎える頃だった。

母の方は亡くなるまでの時間を――父にはしてあげられなかったことを後で悔やまないようにと考えながら――過ごすことができたが、やっぱり亡くなってしばらくは実感として母の死を受け入れられず、あまり悲しいという気持ちが湧かなかった。

母の葬式が終わって1週間ほど、私は体調不良で入院した。病室から私は母に電話をしようとしていた。
……私、今入院しているのよ、お葬式がほんとに大変だったのよ、と。
そして、ふと、あら嫌だ、私、死んじゃった人に電話しようとしている、と気がついた。

生徒の誰かが、三笠塾ってどういう意味ですか、と私に尋ねた。
私も昔「三笠ってどういう意味?」と父に尋ねたことがある。三笠は私の実家の屋号だったからだ。父はアイディアマンで、いろいろ発明もしたし、会社もたくさん作った。作った会社の社名はすべて“三笠”がつく。そして作っては他人に譲り渡した。私がベトナム人のための日本語私塾に三笠塾と名前をつけたのも、そんな父の影響を受けたからである。結局私は両親の傘の下から抜けることができないのだ。

さてその三笠の出典だが、天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも、という有名な阿倍仲麻呂の和歌にでてくる三笠山からきているわけではない。有名な三笠山という和菓子の名前をとったわけでもないし、戦艦三笠でもない。私の実家の姓は笠原である。
「笠に付けた漢数字の三は“みんな”という意味がある。会社というのはみんなでやっていくもの。それを笠原が束ねている。そういう意味なんだよ」と、父が説明してくれたことがあった。

三笠の“笠”は古くからある日本語だ。意味は頭にかぶる帽子のようなもの。これを編み笠という。雨が降った時にさすのは雨傘。雨傘は頭にはかぶらないけど、“笠”は“傘”と同じ意味。雨が降った時さす傘。みんなでさす傘。頭にかぶる傘。これはベトナムにもある。
三笠は大きな傘の下にみんなが集まって来るようなそういう場所でありたい、それが三笠の意味だ。さらに、“塾”は勉強したいと思っている人が勉強したいという気持ちをもって集まってくる場所、私は生徒にそんな風に答えた。

「雨が降ってくる。傘がない、困った。三笠塾に傘を借りに行こう!」
「日本語の勉強が必要だ。三笠塾に行こう!」
「進学相談がしたい。三笠塾に行こう!」
そういう場の提供が理想だ。
そして三笠塾の目的は、①ベトナム人講師によるベトナム語での日本語教育、②JLPTの取得、この2点に尽きると思う。そのためには講師の養成とJLPT取得が三笠塾の最も大切なことだと、今更のように思っている。
さらに、この点をしっかり意識できること、その意識が本塾のDNAのように塾内で共有されていること、目標に向かってみんなが集中して努力する環境にあること、それらが重要だと考えている。けれど、自分の思い通りには行かないのが世の常である。下手するとその思いが傲慢だと思われることもあるだろう。

“三笠”で生まれた私のこと、当然ながらDNAレベルで両親との意識の共有は可能だったと思っていた。父もそういう意味での思い込みの強い人だった。母は手放しで父に協力していたし、私の両親の時代はどこの家庭も同じようなものだったと信じていた。が、最近感じる親子像はだいぶ趣が違う。当時でも私たち親子が特別だったのかもしれない。父は情の厚い人だった。そして私はそんな父によく似ている。だからいまだに“三笠”をひきずっている。

かれこれ7年前に始まったベトナム人との付き合いは、私たち親子と同じような熱く濃い関係を私に思い出させてくれた。まるで時代に逆らっているように、“私が子供だった頃”の親子関係を若いベトナム人たちは私の前で体現させてくれた。
私は生徒たちから「陽子先生は半分ベトナム人!」といわれることが、悪くないなあと思っている。ベトナム人も家族の情に厚い人たちなのだ。

 

 

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