シェイクスピアの”ロミオとジュリエット”の中で、ジュリエットのセリフにバラの名前に関するくだりがあります。パーティーで出会って一目ぼれした青年の名前はロミオ。そのロミオは敵の家の息子。ジュリエットはロミオという存在はその名前で決まるものではない。バラがその名前を他の名前に変えようと、バラの香りに変わりはないのだから、あなたはロミオという名前でなくてもいい、そんな名前なんて捨ててください、と言います。実際のセリフはもっと名調子ですが。
最近のいろいろな出来事で感じるのは、このバラの名前が違う方向性を持っているのでは?ということ。ロミオとジュリエットの時代と違い、誰もがものすごくたくさんの情報を持ち、それを取捨選択することにものすごくたくさんの時間をとられる現在、それゆえに、両親が生まれた子供のために一生懸命考えてくれた名前を、私たちは大切に思わないといけないのだが、一方で今という時代に生きる私たちは、絶対的な名前を持ちながら、それを捨ててしまっても平気。それなのに、捨ててしまっても、私は私なの!という絶対性を持ち得ていないように思う。ジュリエットに言われて名前を捨ててしまったら、私の中にはバラの香りどころか何も残らない。そういう社会がすごく不安に思われるのだ。だ。
苗字に関しても同じことが言える。日本人にとって苗字というのは、その家に属するということ。いってみれば、所在証明だ。”家”というと古臭い、不自由、自分で決めたわけではない、と若気のいたりで散々文句をいっていた時代もあったけれど、苗字も名前も大切な一人の人間がそこに存在するということの証明である。これを勝手に変えたり、捨てたりすることはできない。と年取った今、私は思う。
苗字も名前も大切にしなきゃいけないのに、そのことは案外簡単に安易に扱われていて、一方でそのことの重大性を誰も認識しない。
そして、またまた私は思う。日本語の問題。言葉の問題!と。シェイクスピアの魅力はその”汲めども尽きぬ”言葉の豊饒さにあるように思う。現代社会は情報があふれているが、言葉が豊かであるとはいいがたい。それが、私という”個人””個”においても、同じ扱いになってしまっているみたい。
バラは確かにバラという名前を捨てても、その清い香りに変わりはない。私も自分という大切な”個”が(名前を捨てる気なんかないけれど)名前がなくなっても、自立して生きているという、そんな生き方をしたい。また、若い人たちに、そういう意味での”自立”を望んでやまない。
くどいようですけど、私も歳とっちゃったので。何度も言ってしまいます。