小学校

新宿区の小学校に入学した英君のクラス担任から時々連絡がくる。若い女性教師だ。保護者面談で一度だけ直接会って話を聞いているが、母親と意志の疎通がはかれないので、時々、私のところに電話がかかってくる。 学校の教室で小さな机と椅子を前に面談したときのことを思い出す。こんなに若い先生がひとりで30人の子供の面倒をみるなんて大丈夫なんだろうか?それが私の頭に浮かんだことだった。それは日本語のできない英君のお母さん知恵さんも同じだったようで、教室にいる間中、彼女は悲しそうな難しい表情だった。多分、私も同じような顔をしていたと思う。ベトナムは若年層が厚いので、当然学校もぎゅーぎゅーの満員御礼状態だが、少なくともホームグラウンドである。ベトナム語で知恵さんは担任ともママ友とも話すことができる。子供を注意するにしても、危ない!うるさい!など万国共通のしつけで大丈夫。お母さんはのびのび子育てできる。日本はそういうわけにはいかない。

私が小学校に入学した時、両親は学校で習うのだからと現代の両親のように読み書きを自宅で予習するようなことはしなかった。そういう教育を受けている子もいたし、兄弟がいることで自然に身に着く子もいた。でも、私はなーんにもできなかった。協調性もなかったし、おしゃべりもできなかったし、運動も苦手だった。担任は当時オールドミスといわれていた一生結婚しないで、小学校教育に人生をささげた女性教師だった。自宅が近くにあり、遠くの学校に転勤させられそうになると辞めてやる!と学校長を脅して、ずっとその小学校に、”主”みたいに居座っていた。居座っているというと聞こえが悪いが、彼女はその学校でしか生きられない人、その小学校の存在そのものだった。いつも黒のスーツ(やわらかい丸い襟のテーラードジャケットにタイトスカート、ストッキングとパンプス)をきちんと着用して、でもノーメークだった。髪の毛はひっつめ。白髪がたくさん混じっていた。

担任であるその先生は、陽子さんは時計が読めませんね。ダメですね。と言った。両親はですから教えてください。と言った。先生はあーそうですか。といって教えてくれた。しかも個人教授。私は先生が私だけのために時計はね、と教えてくれることが心苦しかったし、ダメですね。と言われたことに結構傷ついていた。しかも、私は時計の読み方が全然わからなかった。いくら先生が個人教授で教えてくれてもわからないのだ。これはずっと後になって勉強というものの大切さを自分自身で理解できるようになるまで、私を苦しめた。では、自分自身で理解するということはどういうことか?変な言い方になるが日本語、なのである。言葉での理解ができないと、私はわからないのだ。そして、言葉で理解しようという私自身の意志がないと、そこにいきつくことさえできない。私の学習には大量の時間を必要とした。

そういう私と教師としての先生との出会いは最悪だったが、その後小学校3年生まで彼女が担任として受け持ってくれたことは、私の人生の半分を決定づけた。彼女は自分のクラスの生徒を全部、姓ではなく名前でちゃん付けで呼んだ。私は陽子ちゃん。この時の同級生はその後もみんなお互いをちゃん付けで呼ぶ。私たちのクラスはみんな仲良しが自慢です、と言いながら。どちらかというと幼稚園の延長線上みたいな3年間。このクラスでの体験は協調性のない、運動のできない、読書が大好きで、動物が大好きという私の特性をおもいきり伸ばしてくれた。運動ができないことが伸びるというのはおかしいが、私は運動ができないことでいじめられることもないし、自分をだめな人間と思うこともなかった。自慢にもならないが、私は逆上がりができず、縄跳びの輪に入れず、走るのも異様に遅かった。成績も何も記憶にないところをみると最低だったのだろうと思う。でも、友人と勉強のでき具合を競うこともなく、自分が好きなもの、好きなことに没頭していられた。

英君の学校生活で感じるのは、私の小学校生活の対極にあるのでは、ということだ。そういう中で、どちらかというと私と同じような環境に置かれてしまう英君は、老齢の教師に慣れた環境で育てられるいいのにと思う。子供の数が減って、教師になりたい人はたくさんいる。この際、基本的な考え方を変えて、日本の小学校も1クラス30人に教師を5人くらいつけたらいいのでは?と思う。あるいはメンターのような存在を設定する。

英君の小学校の話からだいぶそれてしまった。英君は私と違って運動能力がある。走るのも速い。英君がおもいきり運動できて、パワーが余ってどこかに頭をぶつけないような環境を作ってあげられたらと思う。

 

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