適材適所

私たち世代は自分ができることは自分でやろうとする。私より上の世代も同じだろう。みんな同じと思っている頭の固さに愕然とするが、案外気が付かない。自分でできることを自分がする、これの何がいけないの?問題はそこだ。いけないということではなく、なんでも自分でやってしまわず、他人に教えながらみんなができるようにする。これが時代の望みのようだ。そこでふと思うのが教えるという行為の意味。

私は長くピアノ指導に関わってきた。自分の人生の70%以上をピアノ指導にささげてきたといえる。その中で、上手い下手でなくとても良い音をだす生徒がいる。あるいはある生徒のある楽曲がとても素晴らしい。下手だけど素晴らしい。そういう時、先生はがぜん張り切る。もっといい感じにしたい。この調子ならもっとうまく弾ける。つい指導に力が入る。これが教えるということかな、と私は思っている。

フラワーアレンジメントのクラスに通っている。毎月きれいなお花が玄関を飾るので家族の評判もいい。ただこのところ先生の教えに素直になれなくて、なんとなくお稽古がつらくなっていた。そんなある日のレッスン。同じ花材なのに、みんな全然違う作品になるね。と先生がポツリと言われた。そして、彼は個々に作品を眺めながらアドバイスをしていく。その人の個性を読みながら、さらにきれいに見える形を提案していく。そう、これが教えるということなのだろう。と私は思う。

適材適所という言葉がある。ぴったりはまる人材が瞬時に探し出せれば苦労はない。人はそれほど簡単なものではない。だからこそ、なんでも自分でやってしまう式はこの際ちょっとまって、教育に身をゆだねよう。時間はかかるが、結果それは私自身のためなのだから。

 

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です